昨夜から降り続けた雪は、明け方には止んでいた。
街路樹の上にも屋根の上にも、それは高く降り積もり、午前中の柔らかな陽の光を反射して、ケテルブルグの街を眩しく彩っている。
晴れて澄み切った青空が、きらきらと輝きを放っているのは、ロニール雪山から舞って来る風花のせいだろうか。
リビングから見える窓の外を、肩頬をついて眺めていたピオニーはそんな事を考えていた。
積雪は、深くなると地上にある全ての音を呑み込む。
余計な音の全くしない、きん、とした静けさの中で、数式を読み上げる凛とした声だけが先程からこのリビングに響いている。
「・・・そろそろ一休みしねぇか?」
あまりの静かさに眠気に襲われていたピオニーが、アクビを噛み殺した顔で、その声の主に言った。
「さっきからそればかりで、全然進んでいないじゃない。」
今日何度目かのピオニーからの提案に、呆れた様な声でネフリーは答えた。
バルフォア家のリビングにあるダイニングテーブルに、ピオニーとネフリーは向き合って座っていた。
両親が出掛けた後の静かになった部屋でネフリーは、今日はじっくり公務員試験の勉強をするつもりだった。
自分の部屋以外の場所で勉強することは、試験前でピリピリ気分が続いている彼女にとってはとても気分転換になる。特に、広いダイニングテーブルに座って数式を解く行為を彼女は気に入っていた。
ところが、朝の珈琲を入れ終えてリビングのチェアで一息ついていた時に、今日は会う約束をしていなかったはずのピオニーが、おもむろにリビングの窓からひょっこりと顔を現したのだった。
「俺の人生において、幾何学が特に必要になることがある、とは、俺にはとても思えない。」
「またそうやって論点をずらすんだから。あなたがどうしても解けない問題がある、って言うから、こうして説明しているんじゃない。」
ピオニーは、元々は兄ジェイドの友人であったが、幼い頃から一緒に遊んでいたので、今ではネフリーにとっても古くからの馴染みの友人、でもあった。
ピオニーに勉強を教えるのもその兄の役目だったのだが、マルクト帝国内でも1,2を争う程に成績優秀であった彼は、ネブリム先生の事故の後間もなく、是非にと請われて、帝国軍の名家でもあったカーティス家へ養子に入っていた。
まるでこの場所から逃げるかの如くに、さっさと首都グランコクマへ行ってしまった兄は、入隊して忙しいのか何なのか、それきりケテルブルグに戻ってくる事はなかった。
その為、ピオニーのお守り役兼勉強を見ることは自然と、ジェイドの妹であるネフリーの役目になっていたのだった。
初めは、お兄さんがいなくなってピオニー様もお淋しいのね、とネフリーは思っていたが、彼にとっては、どうやらそうではなかったらしい。
ネブリム先生の私塾が無くなってから、事ある毎に何か理由をくっつけては、彼は軟禁されていた自分の屋敷を抜け出して、ネフリーに会いに来ていたのだった。
「兄貴そっくりな顔をして、兄貴と同じ様な事を言うなよ。」
ピオニーはぷぅ、とふくれ面をして見せた。
「えっ!」
ネフリーはその言葉に驚いたような顔になり、そして、
「・・・ごめんなさい。そんなにきつく言ったつもりはなかったのだけれど・・・。」
と言った途端にシュン、とした顔になった。
バルフォア家の血筋なのか、ネフリーの彼女の兄同様の整った顔立ちは、彼女の聡明さをより引き立たせていた。
しかし性格の方はと言うと、彼女はとても素直で、変な意地を張ったりしない真っ直ぐさ、を持ち合わせていた。
「兄貴とは大違いだ。」
と、ピオニーは思う。
ネフリーは子供の頃から知っているが、小さい頃はまるで天使の様に可愛らしかった。
暗い屋敷に閉じ込められ、長く軟禁生活を送っていたピオニーにとって、彼女と遊ぶ時間はとても楽しく、いつも明るい気持ちになれた。
きらきらと、まるで風花の様に眩しくピオニーの瞳に映っていた彼女は、今でもその輝きを失ってはいない。
まるで本当の妹のように思っていたネフリーへの気持ちが、次第に変化していったのは、いつの頃からだったのだろう。
友の妹。気のおけない遊び友達。とても大切に思っている異性の幼馴染み。
そして。
「そうやって怒っていても、最後は必ず許してくれる。君のそんな優しい所も俺は好きなんだ。」
「ピオニー・・・。」
テーブル越しに身を乗り出したピオニーは、ノートに数式を書いていた手を止めて、ふと顔をあげたネフリーにそっとキスをした。
<終。>