星の無い、春の闇に溶けた雲が足早に駆けてゆく。
樹々の奏でる葉音が、誘うように窓を叩く。
こういう夜は何故か胸が騒ぐ。
黒褐色の空。生暖かい風。花の匂い。下弦の朧月。
頭の中へデータが過剰に入ってきて、思考回路がショートする。
行かなくちゃ。
俺は今すぐに、向かわなけりゃならない。
いるべき所はここじゃない。
・・・でも一体何処へ?
・・・そこへ何をしに?
理由は分からない。でも、俺は帰らなくちゃ。
誰かが俺を呼んでいる。
なんだかとても嫌な感じだ…。
旅先の宿の一室でガイは眼を覚ました。
出窓から射し込んでくる月明かりが、今はやけに眩しい。
寝ている間に何度も寝返りをうったようだ。
片側に寄ったシーツも、熱と湿気を多分に帯びている。
蒸し暑い夜だった。
昼間の熱を残した風は強く、これでは窓も開けられない。
汗でぐっしょりと濡れたシャツをはだけると、ガイはふと横を向いた。
この時間であれば、いつもは隣のベッドで寝ているはずのルークがいない。
「あいつ・・・まさか、また例のやつが出たのか?」
そう一人呟いたガイは、慌てて床に落ちていた薄いガウンを羽織ると、足早に部屋の外へ出て行った。
南から吹く風は次第に勢いを増して、野に咲く草木を大きく揺らしている。
気が付くと、遮るものも何もない、広々とした丘の上にルークは立っていた。
激しいうねりにその身をたゆたえながら、ルークは自分を包む全てのものが、このまま溶けて飲み込まれてゆくような感覚に陥っていた。
呼ばれてると感じる方角を見上げると、途切れた雲のまたその奥から、いつの間にかはっきりと、灰白色の月が出ている。
「いつも俺を呼んでいたのは、お前か?」
届くはずもないのに、ルークは大きく左手を伸ばしてみる。
指と指の隙間から、闇を縫った淡い光が降り零れる。
こうしていると、なんだか無性に懐かしい。
遠い、遠い、昔から、俺はお前を知っていた気がする。
だらり、と脇に残っていたもう片方の手も、更に上へと伸ばしてみる。
こんなに遠くに離れているのに、触れている、と感じるのは何故なのだろう。
ただの自分の錯覚か、リアル過ぎるほどリアルな夢なのか。
それとも、触れていると思いたい、自分自身の願望か?
「ルーク!!」
よく知った別の声に呼ばれて、ルークはゆっくりと振り返った。
宿の周辺を散々歩き回って、くまなく探したが見つからずに諦めかけていた頃、唐突に目の前の視界が開け、やけに何もない場所に出た。
遠くに一つのシルエットを捉えて、ガイは思わず、それに向かって一目散に走り出していた。
「ルーク!!」
大声で名前を呼んだガイは、なだらかな坂の途中で急に立ち止まった。
野面の真ん中で一人佇んでいたルークの姿がはっきりと見えた途端、突然激しい焦燥感と飢餓感に襲われ、つい足が止まってしまったのだ。
ガイはぶるっ、と身震いした。
何なんだ、これは一体・・・。
ぼんやりとした顔のまま、ルークがこちらを見ている。
次の瞬間、何かに衝かれるようにまた駆け出して、ガイはルークが降ろしかけていたその両腕を思い切り掴んだ。
その力の強さに気圧されたようにルークは、はた、と我に返り驚いた顔をして、ガイ、と呟いた。
「ど、どうしたんだよ、そんな恐い顔して。」
急に走り出したせいで呼吸の早くなっているガイは、少し前屈みになって肩で息をしている。
ぜぃぜぃ、と荒い息遣いのため、すぐに言葉が出せないようだった。
「それに、なんで俺はこんな所にいるんだろ?」
やはり返事は無いが、しかし掴まれた両腕の痛みは更に強さを増し、それは、ガイも自分にそれを問うているのだ、とルークに理解させた。
「誰かに呼ばれている気がしたんだ、夢の中で。で、行かなくちゃ、と思って。だから多分、俺・・・」
頭の先から手の先まで汗でびっしょりになっているガイは、こんな花嵐の中でも分かるほどに強く、熱気を発しているようだった。
乱れた息を整えながら、上目遣いで見返してきたガイの瞳は、ある種の鋭さを帯びていた。
その眼光に射竦められたように感じたルークは身体を硬くし、おずおずとして、ごめん、ガイ、と謝った。
それを聞いたガイは、はぁーっと大きく息を吐くと、一気に全身の力が抜けたようにルークの元へもたれかかってきた。
「・・・良かった。お前が無事で。」
「無事で、って・・・そんな遠くに来た訳でもないのに大袈裟だなぁ。」
心配し過ぎだと、ガイの姿に笑ってみせるルークに、そりゃそうなんだが、とガイは言った。
「お前は昔から夢遊病のような症状が出る時があったからな。朝起こしに行くと、素足に泥をつけたまま眠っていたり、外へ出た窓の下で寝ていたり。
でも歳を重ねるにつれてそれも減っていって、最近はそんな事もすっかり無くなっていた。最初はそのくせが久々に出ちまったのか、と思ったさ。」
そこまで話して、でも、とガイは続けた。
「俺も何故だかは解らないんだが、今晩は、妙に胸騒ぎがしたんだ。」
「胸騒ぎ?」
ルークが答える。
「ああ。それで慌てて、先に出て行ったらしいお前を方々探し回ったが何処にも見当たらず、大分経ってやっと見つけた、と思ったらお前が・・・」
ガイはそこまで言って、ふと黙ってしまった。
アッシュが居るべき場所に、自分が当然の様にして居ることにルークが疑問を感じ、しかし他に行ける所も無く、帰る場所を失う不安を抱えているルークの最近の変調に、ガイは勿論気づいていた。
だからこそ、俺は余計な心配をし過ぎたのかもしれない。
こいつが俺に黙っていなくなる、なんてことは有り得ないしな。
ガイは、先程訳も無く自分が襲われた強い感覚を、そんな風に結論づけた。
「お前が、何?」
不思議そうにガイを見ているルークの顔を見て、ガイは優しく微笑みかけた。
「いや、何でもない。」
「なんだよ。変なガイ。」
すっかりいつもの様子に戻ったルークの姿に、ガイは胸を撫で降ろした。
何だったんだろう、あの夢は。
ガイのすぐ横で帰り道を辿りながら、ルークはぼんやりと考えていた。
夢だと思っていたが、自分の足でここまで来た、という事実は現実なのだ。
どこまでが夢で、どこからが夢でなかったのだろう。
ルークは立ち止まって夜空を仰ぎ見た。
月は、先程と変わりなく辺りを照らし続けている。
俺は・・・何処に帰ればいいんだろう。
すると、ぽすっ、とルークの頭にガイの手が乗せられた。
驚いてガイに視線を戻すと、ガイは真っ直ぐに視線を合わせてきた。
「お前は今、ここにいる。そしてここは、紛れもなくお前の場所だ。何があっても帰って来い。俺はいつでもここにいるからな。」
それを忘れるなよ、と言ってガイは、くしゃくしゃ、とルークの頭を撫でた。
月明かりを背に受けたガイからは、手の平から伝わってくる体温と共にガイの匂いがした。
懐かしいこの感じ。
俺は昔からこれを知っている。
そう思うとルークは無性に嬉しくなり、どことなく漂っていた心は喜びで満たされた。
そして気付く。
そうだ。俺は、ここに帰ってきていいんだ、と。
<終。>