DropsⅡ vol.4

ED後の話

乾いた機械音と鼻をつく薬品の臭いに、ナタリアは思わず顔をしかめた。
「何度来ても好きになれませんわ、この場所は。」
スピノザを訪ねて訪れたベルケンドで、研究所の無機質な部屋に通されたナタリアとセシルは、待ち合わせの時間より早めに着いてしまった事を少々後悔していた。実験と研究を行うことに特化して造られている場所なだけに、膨大な資料や分厚い書物を収めた本棚、寒々しい器材や材料、大量の薬品が入った瓶の数々の他に、若い女性の目を喜ばせるような物が置いてあるはずもなかった。


「これはこれは。お待たせして申し訳ありません。」
実験の途中であったのだろうか、前を汚した白衣を纏ったスピノザが、ぺこぺこと何度も頭を下げながら部屋に入ってきた。あれからすっかり心を入れ替えたこの男は、今ではこの研究所には無くてはならない立場の人間になっていたが、自分が過去に起こした罪を忘れてはいないらしい、腰の低さを見せた。
しかしその様子はへつらっている感じではなく、本当に謙虚な感じでいるように見えたので、ナタリアはむしろ好感を持った。
「では早速ですが、まずはセシル将軍から。」
と言って、ナタリアは二人にレプリカ施設の案件について話をさせた。 セシルはレプリカについて本当によく勉強している。
ナタリアはまじまじとセシルの横顔をみつめていた。スピノザもそれについては以前に大変褒めていた。彼女の疑問は興味深いとし、スピノザは物理学や生物学以外にも、化学や地質学、歴史学など色んな方面の資料を取り出して説明してくれた。しかし、細かな部分の違いはあれど、レプリカには昔の研究と現在の研究の間で、全くかけ離れているとする症例は特に出ていないという発表が、一番近々の学会でありました、と二人に話した。
「ただ、それには・・・」
とスピノザが言いかけた時、シュッ、と入り口の自動ドアが開き、

「おやおや。これはまた久しぶりな顔ぶれですね。」
という、あまり聞きたくない声音の人物が入ってきた。
それは先日、マルクト帝国の牢から恩赦にて出されたと聞き及んでいた、かつての六神将の内の一人、死神(薔薇)のディストこと、サフィール・ワイヨン・ネイスの姿だった。 すっかり博士の様相に戻った彼は、どうやらスピノザに用事があるらしい。
「めずらしい方がいらっしゃっていたのですね。」
「ディスト。相変わらずお元気そうですわね。」
ナタリアの嫌味ともとれる言葉になんのダメージも受けた様子もなく、ええ、お陰様で、と言って両手に抱えた資料をどさりと机に置いてこちらに向き直った。さすがは長年ジェイドを慕っていただけのことはある。
「あなた方はアッシュの事で、ですか?」
サフィールは単刀直入に聞いてきた。
彼にアッシュの事を聞くのは嫌だったが、スピノザにサフィールの方がより詳しいから、と言われてしまったので仕方なくナタリアはうなずいた。お二人に当時の説明をしてさしあげてくれないか、と頼まれた方のサフィールも、あの性悪ジェイドに聞いていないんですか?と意地悪く言い、それを諭して改めて頼んだスピノザに、渋々といった感じで仕方ないですね、と言った。
レプリカの完全同位体の内容については、大まかには解りますよね?とナタリアに問い、ナタリアのうなずきを確認した後サフィールは話し出した。

「・・・あの時、エルドラントにあなた方が到達した時点で、アッシュは既にビッグバンが始まっていた、と考えて良いでしょう。事実、あの日よりももっと前の段階から、アッシュの身体にはコンタミネーション現象の前触れである、身体能力の低下及び音素隔離が起きていました。でなければ、通常の状態で、オリジナルがレプリカに負ける、といった事が起こる訳がありません。」
「ではやはり・・・」
言いかけてナタリアは言葉を繋ぐのを躊躇った。口にしてしまっては、もしかしたら、という万が一の望みが消えてしまいそうだったからだ。
しかしサフィールは事も無げに、ですから、レプリカのルークが生きている、という事は、現実的には有り得ません、と言い放った。
解ってはいるつもりだったが、こうはっきりと言われてしまうと、ナタリアには辛いものがあった。呆然としているナタリアに、スピノザが慰めるかの様に慌てて説明を加えた。
「物理学の観点から言っても、ビッグバンにおいては“自発的対称性の破れ”は大きな特徴であるのです。その瞬間に存在した素粒子には、必ず同じ数だけペアとしての反粒子が存在します。そして、やがてそれの対称性が何故破れるのかというと、反粒子が素粒子よりわずかに寿命が短かったからという考え方から来ています。それはオリジナルとレプリカ、という様にも例えられますので・・・」
しかし、ナタリアには既にその説明も耳に届いていなかった。

「─ですが。」
と唐突に、サフィールが語気を強めた。
「あの時、この研究を一番解っているはずのあの性悪“ジェイド”が、私に違う結果の可能性を求めてきました。」
「違う、可能性?」
うな垂れているナタリアに変わって、セシルが答えた。
「ええ。レプリカが残すものが“記憶”だけでない、という可能性です。」
「そんな事があるのですか?」
とのセシルの問いに、いいえ、とサフィールが言った。
「あの男の感情的な見解などは聞きたくもありませんでしたので、その時はそんなものに成り下がってしまった彼を軽蔑しましたが、今になって思えば、それだけでは無かったのかもしれない、という気もします。物理学的にはそうでも、生物学的には違う可能性があるかもしれない“何か”を、あの男はこっそり掴んでいるのかもしれません。性格悪いですからねあの男は。私達にも内緒にしている事実があってもおかしくありません。それでなくても・・・」
きぃーっ、と歯噛みをしながらその後延々と続くジェイドの悪口に、セシルとスピノザは辟易していたが、全く別の事を考え始めたナタリアの耳には、それはもう聞こえてはこなかった。
<終。─Ⅲへ続く─>

Page Top