「─何度も言わせるな。ヴァン謡将はバチカルへ向かわれたのだ。今日はもうダアトには戻られない。」
「だから何で戻らないのかって聞いてるんだよ!」
その時ヴァンの執務室には、彼を訪ねて来たアッシュと彼の副官であるリグレットの二人だけしかいなかった。
キムラスカ=ランバルディア王国のバチカルにあるファブレ公爵家へ、ヴァンは週に一度は通っていた。
王族に連なるファブレ家は肥沃な領土を持ち、その裕福な財でダアトや教団のみならず、
ヴァン個人の実験にも金銭面で援助を行っていた。
その見返りとしてヴァンは、その一人息子の剣術指導に行っていたのだった。
「何故戻られないのかは、私は知らぬ。ファブレ家ご子息の生誕祝賀会が大々的に催されるとの話だ、
そのまま夜通しで行われるのではないのか。」
「だから…何で…。」
アッシュの問いは執拗だった。どうやら質問と答えが噛み合っていないらしい。
しかしリグレットには、それ以外の意味の答えが分からないので、これ以上返事の仕様がない。
「…くそっ!!」
アッシュは口惜しそうに激しく自分の足を叩いた。
「・・・・・・。」
その行動にリグレットは不自然さを感じた。
物に当たるのではなく自らに当たるなどとは、どこか自虐的である。
しかもその本人がアッシュである。いつもの彼からは有り得ない行為だ。
「こんな時まで…レプリカかよ…。」
「?!」
その言葉を聞いてリグレットは思わず眉をひそめた。
今日がアッシュの剣術指導日であるのは知っていた。
それを反故にしてまで、急遽早まったファブレ家の祝賀会にヴァンが向かった事を、
アッシュが怒るのは無理もない。
彼にとっての剣は自らの矛であり盾でもある。そしてヴァンの一番弟子を自負する事は、
彼にとって重要な存在意義であり、彼の支柱でもあるのだ。
兵士である事を常に自覚し、その理想像を日々求め続けるリグレットにはその気持ちがよく解る。
(だが、その後に続いたアッシュの言葉…。)
リグレットは、まだ床を睨み続けているアッシュに問うた。
「アッシュ。…今、レプリカ、と言わなかったか?」
「!」
はっ、とした表情で一瞬青ざめたアッシュは、気を取り直してゆっくりとリグレットの方へ向き直った。
「…何でもない。」
無表情を装っているが、目が合った途端に逸らしたアッシュの顔に、明らかに焦りが見える。
「いや、お前は今確かに…」
「何でもないって言ってるだろっ!!」
怒鳴り声を上げてそう言うと、アッシュは逃げるように執務室から出て行った。
「・・・・・・。」
ある意味分かり易いな、などと考えながらリグレットは冷静に、その後姿を見送っていた。
実は前々から気になっている事があった。
複製品、“レプリカ”という単語。
ケテルブルグで発明されたというそれは、長い間マルクト帝国が管理し研究され続けてきた。
しかし何年か前に唐突ではあったが、生物レプリカの研究は倫理的見地から禁忌とされたはずである。
それなのにリグレットがヴァンの副官となってからはちらちらと、その単語を再び耳にするようになったのだった。
ヴァンが私的に行っている実験。
それはかなり綿密に隠され、極秘裏で行われているもので、教団幹部にも殆どその存在を知られていなかった。
ただ、自分の行っている実験の内容を、副官であるリグレットが聞いてしまうのは避けられないと思ったからか、
ヴァンはリグレットの疑問に対しては、
「時期が来たら全て話す。それまでは素知らぬフリをしていろ。その方がお前のためでもあるのだ。」
と言って肯定も否定もせず、しかし詳細は明かさなかった。
ところが、その実験に当初から関わっているらしい、不気味な眼鏡男ディストは自己顕示欲の塊のような男なので、
「私達のやっている事は、この世界にとってまさに革命、革命なのですよっ!」
などと、聞いてもいないのにべらべらと勝手に喋ってくれた。
自分よりも後に来てヴァンの副官となったリグレットに対して、勝手に敵対心を燃やしているらしいのだが、
その性格が自分の首をしめる事になりかねない、などとは彼は1mmたりとも思わないらしい。
「そしてあの陰険ジェイドを私の前にひれ伏させてやるのです!大体あの男はですね…」
などと、まだしゃべり続けているディストを尻目に、リグレットは一人でさっさと歩き出した。
(…ジェイド、と言えば有名なのはジェイド=カーティス大佐だろうか。
確か、先のローテル=ローの戦いで多大な功績をあげて、若くしてマルクト帝国第三師団の師団長になったと聞いている…。)
そこでリグレットの鋭い勘が働いた。
ジェイド=カーティス、又の名をジェイド=バルフォアと言い、博士号を持つレプリカ研究の第一人者である。
ヴァンの執務室の裏の書庫に、バルフォア博士の本が何冊か収められていたのをリグレットは記憶していた。
そしてディストは以前、
「自分は雪国出身なのに異常に寒がりだ、何故なら」(この先はもう聞いていなかったが)
と聞いてもいないのに言っていた…。
レプリカ─。
アッシュの言ったレプリカと、どんな関係があるのかは解らないが、詳しく調べてみる価値はありそうだ。
リグレットはそんな事を考えながら、射撃の自主練習をするために外へ出た。
するとそこへ目に入ってきたのが、うなだれて階段の端に座り込んでいる、小さくなったアッシュの姿だった。